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東京都荒川区の歴史
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所在地 東京都荒川区南千住2-1-12

浄土宗
 栄法山 清光院 浄閑寺(投込寺)

 浄閑寺じょうかんじは浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政2年(1855年)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから『投込寺なげこみでら』と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、
『 生まれては苦界、死しては浄閑寺 』と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。
 檀徒の他に、遊女やその子供の名前を記した、寛保3年(1743年)から大正15年(1926年)にいたる、十冊の過去帳が現存する。
 遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。『今の世のわかき人々~』にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。
  
荒川区教育委員会

 浄閑寺境内には『永井荷風文学碑』、『新吉原総霊塔』、『萩原秋厳墓』、『新比翼塚』、『豕塚』、『本庄兄弟首洗井戸』、『本庄兄弟首塚(助七・助八)』、『三遊亭歌笑塚』、『ひまわり地蔵尊』、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』があります。

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所在地 荒川区南千住足立区千住橋戸町

 ”千住大橋”は”千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って4年目の文禄3年(1594)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。
 当初は、ただ”大橋”と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから”千住”の地名を付して呼ばれるようになった。
 江戸時代の大橋は木橋で、長さ66間(約120メートル)、幅4間(約7メートル)であった。
 奥州・日光・水戸産街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、30余藩の大名行列がゆかう東北への唯一の大橋であった。
 松尾芭蕉が、奥州への旅で、人々と別れたところも、ここである。



 現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和2年(1927)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和48年(1973)、新橋がそえられた。

 昭和59年(1984)3月 東京都



所在地 荒川区南千住1

 大関横町は、下野黒羽藩主の大関信濃守下屋敷(南千住1丁目1~8番付近)の南と西を取囲んでいた道である。南側の道は現在の明治通り。西側の道をはさんで伊予新谷藩主加藤大蔵少輔下屋敷(荒川1丁目36~38番付近)があった。
 明治通りに拡張される前の道幅は、約ニ間(約4メートル)で、大関横町から三河島道(区立第一中学校の南側の道)に入ると前方に地蔵堀の石地蔵などを望むことができたという。
  荒川区教育委員会


所在地 荒川区南千住1-13

  大関屋敷跡
 下野黒羽藩主大関氏は、寛文元年(1661)、幕府からこの地に下屋敷を拝領した。その範囲は南千住1丁目1~8番、10、11番の一部の辺りと推定される。面積は抱屋敷を含めて8100坪(約26700平方メートル)であった。
 黒羽藩二十七代増業は膨大な図書の編纂と、藩政改革で知られる。文政7年(1824)の隠居後、この下屋敷に閑居した。
 また、三十一代増裕は若年寄兼海軍奉行の要職にあり、軍艦奉行勝海舟とともに幕末に活躍している。
 荒川区教育委員会


所在地 荒川区南千住1-15 (ドミール三ノ輪付近)

  宗屋敷跡
 対馬藩主の宗対馬守下屋敷は、寛文元年(1661)、に幕府から拝領した。面積8100坪(約26700平方メートル)。都電荒川線を北限とし、南は明治通り、東は日光街道より1本西側の道、西は南千住1丁目9番あたりまでが屋敷の範囲と推定される。
 この屋敷の東南の角に、辻番所があった。武家屋敷近辺の取締りのために設けられたものである。
 荒川区教育委員会


 


所在地 荒川区南千住1-26

  石川屋敷跡
 伊勢亀山藩主石川日向守屋敷は、新開地一帯(現在のジョイフル三の輪あたり)にあって、総坪数11040坪(約36400平方メートル)にも及ぶ広さであった。万治元年(1658)、主殿頭憲之の時に、三河島・三の輪・小塚原三か村のうち10530坪(約34700平方メートル)の地を拝領し下屋敷を造築。寛文5年(1665)三河島村重右衛門の所有地518坪(約1700平方メートル)を買上げ、屋敷・庭園を造築した。
 この石川屋敷では、4月から7月までの間に限って鉄砲稽古をしたという。
 荒川区教育委員会


所在地 荒川区南千住1-32

浄土宗
 満海山 公春院 千日寺



  公春院の松
 公春院の巨松は、明治の末ごろで周囲が約4メートル、高さ14メートル、樹齢は優に500年を越すものであったといわれる。
 『遊歴雑記』(文政12年〔1829〕)にも、東武三十六名松の1つ「証拠の松」として記されている。江戸時代、新しく寺院を建てることは禁止されていた。幕府の役人が当寺の開創年代を調べにきた際に、松の雄大な様子が新しい寺院ではないことを証明した。以来「証拠の松」とよばれるようになったという。
 寺内に、天明7年(1787)銘太鼓、紙本着色仏涅槃図、寛文10年(1670)銘手水鉢などがある。
 荒川区教育委員会


所在地 荒川区南千住1-56

 寛文元年(1661)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられた。東西二十間三尺、南北二十四間二尺(面積約1600平方メートル)ほどの土地であるが、本区におけるただ1つの門前町である。
 町奉行支配地で、寛延2年(1749)3月に類焼の後、家作と畑地に分けられた。明治2年(1869)地名を下谷真正寺町と改めたが、明治12年(1879)下谷通新町に合併された。
 荒川区教育委員会


所在地 荒川区南千住2-1

  音無川と日本堤
 音無川は王子で石神井川からわかれている。その清流は田端・日暮里・金杉を流れ、三ノ輪橋をくぐり、浄閑寺の西側にそって、ここから山谷堀をへて隅田川にそそいでいる。今は暗渠になっているが、明治のおわりまで灌漑用水として使われていた。
 音無川にそって、三ノ輪から聖天町(現浅草7丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。安藤広重の『名所江戸百景』に描かれ、新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。浄閑寺前の三叉路の最も南寄りの道路がその名残である。
 荒川区教育委員会


所在地 荒川区南千住2-1 

  三ノ輪橋跡(三の輪橋跡)(音無川)

 三ノ輪橋は、石神井川の支流として王子から分流した音無川が、現在の日光街道と交差するところに架けられた橋である。橋の長さは五間四尺(約10メートル)、幅三間(約6メートル)であったという。
 音無川は、日暮里駅前を経て、台東区(根岸)との区境を通り、常磐線ガード手前を右折、その左角は私立池谷小学校(明治36年〔1903〕廃校)跡、そして現日光街道を横ぎり、日本堤の北側を流れて山谷堀にいたるものであった。
 明治41年(1908)、三ノ輪が属する16番分水組合が廃止され、音無川は農業用水としての役目を終えた。現在は暗渠となり、橋の名前は、都電荒川線の停留所として残されている。
 荒川区教育委員会 台東区教育委員会


所在地 荒川区南千住3-28台東区 ~ 墨田区

  白鬚橋


  白鬚橋
 白髭しらひげの名は、天暦5年(951)創建の縁起のある向島の白髭神社に由来している。
 古来、梅若伝説で知られる渡船場もこの辺りにあり、のちには舟の浮橋などもかけられたという説もある。 ここを、「船場の渡し」といったのは、このゆかりの名であり、交通の要地であったことを示している。 大正3年(1914)には、地元の住民によって会社が設立され、有料の木橋がかけられた。
 関東大震災(1923)を経て、復興事業の一環として、昭和6年(1931)に重量感溢れるアーチ橋として かけかえられた。その後、東京大空襲などにも他の橋とともに多くの人を救う役割を果たした。
 現在も、荒川区・墨田区・台東区の3区を結ぶ重要な橋である。
  昭和58年(1983)3月 東京都


所在地 荒川区南千住5-16

 金福稲荷神社は、文化7年(1810)江戸時代の史家林大学頭編纂による「新編武蔵風土記稿」中に、この近一帯は往昔「武蔵国中村」と称せられ、今から凡そ600年前の貞和3年(1347)足利時代に現西光寺境内地に「金子福寿稲荷」として創建されたものと記録され、その後、天文年間に西光寺が建立され、この金福稲荷が由緒ある霊験あらたかな神として地元の崇敬の中心となっておりました。かゝる由緒深い稲荷神社が戦災後信仰深い有志の方々により昭和32年(1957)2月に西光寺境内に再建復元され、この度現在伊に遷座いたし、益々地元の福祉と発展の守護神としてお祀りした次第であります。
 昭和53年(1978)4月記


所在地 荒川区南千住5-16

  笹の団子の如来(西光寺)
 西光寺は、真覚山菩提院といい、芝増上寺の末寺で、賢誉長公(天文8年〔1539〕没)が開いた寺である。
 本尊の阿弥陀如来は、恵心僧都源信の作と伝える四尺ばかり(約1.2メートル)の坐像である。病のある者が、笹の枝にさした白団子を供えて祈願すれば霊願があるといわれ、「笹の団子の如来」とよばれている。
 境内に、貞和5年(1349)に鎮座したという金子福寿稲荷(金福稲荷)があったが、昭和53年(1978)に西光寺の東方に移転した。
 荒川区教育委員会


所在地 荒川区南千住1-59

  百観音 円通寺
 延暦10年(791)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、この辺りを小塚原とよぶようになったという。
 江戸時代、下谷の広徳寺入谷の鬼子母神とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂は安政2年(1855)の大地震で倒壊した。
 境内には、石造七重塔、彰義隊士の墓、永仁4年(1296)銘を始めとする板碑4基(区指定文化財)などがある。
 荒川区教育委員会



 円通寺境内には『彰義隊士の墓』、『旧上野の黒門』、『板碑』、『鷹見の松』、『四十八首塚』、『七重塔』があります。


所在地 荒川区南千住1-59 (円通寺)

荒川区指定文化財
 旧上野の黒門



 この黒門は、慶応4年(1868)5月15日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争で、あとに放置されていた多数の彰義隊士の遺体を、当時の円通寺仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎とが集めて火葬し、円通寺に葬った機縁で、明治40年(1907)に帝室博物館より下賜された。上野山内「袴越し」にあった黒門は、上野八門のうちで表門にあたり、両軍攻防の重要な拠点であった。弾痕が往時の激戦を今に伝えている。


所在地 荒川区南千住1-59 (円通寺)

  四十八首塚
 八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四十八を得て還り、この地に埋め首塚四十八基を築いた。それからこの地を「小塚原」と呼ぶようになった。
  円通寺


所在地 荒川区南千住1-59 (円通寺)

  七重塔
 基部四面に『四十八首塚』と『鷹見の松』の伝誦を刻している。荒川区最古の文献である。
  円通寺


所在地 荒川区南千住1-59 (円通寺)

  彰義隊士の墓
 慶応4年(1868)5月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる彰義隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
 これが縁となって、明治40年(1907)、寛永寺黒門が円通寺に移された。昭和60年(1985)に修復工事が行われている。
 荒川区教育委員会



 


所在地 荒川区南千住1-59 (円通寺)

  鷹見の松
 寛永3年(1626)3代将軍徳川家光が放鷹の日、円通寺の松に止まる。それから「鷹見の松」と呼ばれる。
  円通寺


所在地 荒川区南千住1-59 (円通寺)

荒川区指定有形文化財(歴史資料)
 板碑四基(永仁四年十月日銘)
     平成4年2月7日指定



 円通寺の板碑4基の内、3基は鎌倉時代末期の紀年銘をもち、区内に現存する板碑の中でも古い時代に属する。とりわけ永仁4年(1296)10月日銘は、日慶寺の正応2年(1289)銘に次いで2番目に古い年号を有し、南千住における鎌倉時代の人びとの生活を知るうえで貴重である。また、嘉暦4年(1329)正月29日銘は、薬研彫りで精巧な彫刻が施され、造形的にも優れている板碑といえる。


所在地 荒川区南千住5-44

  真養寺
 運千山真養寺は、寛永2年(1625)、下や三枚橋(現台東区)に開創した広布山真養寺と、万治2年(1659)、当地に創建された運千山自性院が、元禄2年(1689)に合寺して開かれた寺院である。
 吉田勘兵衛は、自性院創建の際に、寺地2240坪を寄進し、鬼子母神堂や庫裡、書院なども建てたと伝えられる。境内には、吉田勘兵衛が先祖供養のために建立した寛文11年(1671)2月銘の宝塔が今も残る。
 勘兵衛は、現在の大阪府豊能郡出身で、寛永頃江戸に下り、本材木町4丁目(現中央区)に住んだ。石材・材木商として、江戸城の普請工事に参加し、万治2年(1659)には、吉田新田(現横浜市中区・南区)を開発したことで知られている。
 なお、小塚原周辺でも新田開発を行ったとされており、万治3年(1660)、小塚原町・中村町が千住宿に加宿されたことと、勘兵衛の新田開発との関連が指摘されている。
 荒川区教育委員会

 


所在地 荒川区南千住6-63

荒川区登録有形文化財(歴史資料)
 橋本左内の墓旧套堂

 この套堂は、昭和8年(1933)に橋本左内の墓(区登録有形文化財〔歴史資料〕)を保護する(納める、覆う)ために造られた建造物です。大正12年(1923)の関東大震災後に耐震性と不燃性の観点から注目されるようになった鉄筋コンクリート造で、規模は方一間(柱間1.94メートル)、宝形造の屋根、軒裏および柱・梁等の軸部には、表面に人造擬石洗出・研出仕上げを施しており、伝統的な建築の意匠と近代的工法との折衷を図った近代仏教建築といえます。もとは回向院(南千住5丁目)境内入口にありましたが、平成18年(2006)、套堂のみ区に寄贈され、平成21年(2009)、ここに復元されました。
 当時、套堂の施主となったのは、橋本左内を追慕し、遺徳を広く発揚することを目的として、明治35年(1902)に設立された景岳会で、事務所は福井県出身の学生を育英するため設けられた輔仁会内に置かれました。設計には、同会会員で建築家でもあった原田正があたり、歴史学者黒板勝美(古社寺保存会委員・東京帝国大学教授)に助言を求め、日本建築史を体系化した建築家伊東忠太(東京帝国大学教授・史蹟名勝天然記念物保存協会評議員)の監修を受けています。また、正面に据え付けられた陶製の橋本家の家紋のデザインは、福井県出身で、日本の陶彫のさきがけとして知られる沼田一雅(東京美術学校教授)によるものです。当代一流の学者の知識・技術・感性が結集した近代の貴重な文化財といえます。
 平成21年(2009)3月26日 荒川区教育委員会

橋本左内の墓及び橋本左内の墓旧套堂関係略年表
・天保5年(1834)3月
 橋本左内、福井藩奥外科医の子として生まれる。
・嘉永元年(1848)6月
 15歳の時、「啓発録」を著す。
・安政元年(1854)3月
 江戸に遊学。坪井信良、杉田成卿に蘭学を学ぶ。遊学中、藤田東湖(水戸藩)や西郷隆盛(薩摩藩)ら他藩士と交友を結ぶ。
・安政4年(1857)
 福井藩主松平慶永(春嶽)の側近として藩政改革を行う。また、松平慶永の意を受け、一橋慶喜の将軍擁立のため活動を始め、他藩士や幕閣の間を奔走する。
・安政5年(1858)
 彦根藩主井伊直弼、大老に就任し一橋派を弾圧。松平慶永は、隠居・閉門となり、橋本左内は、福井藩邸内で謹慎。数度の尋問を受ける。
・安政6年(1859)10月
 橋本左内、一藩士が将軍継嗣に関わったことが問題とされ、小伝馬町の牢屋敷において斬刑となり、小塚原回向院へ埋葬される。
・文久2年(1862)11月
 安政の大獄の関係者の大赦。
・文久3年(1863)5月
 橋本左内の墓が国許福井の橋本家菩提寺善慶寺に改葬される。
・明治18年(1885)11月
 景岳橋本君碑回向院に落成。
・明治26年(1893)11月
 橋本左内の墓回向院に移転され、再建される。
・明治35年(1902)10月
 景岳会が設立される。
・大正14年(1925)6月
 回向院の橋本左内の墓及び景岳橋本君碑を含む小塚原志士墓所が東京府仮指定史跡となる。
・昭和5年(1930)12月
 景岳会が橋本左内の墓の破損防止策を遣欧し、套堂の建設を決定。
・昭和8年(1933)6月
 套堂の落成式が行われる。
・昭和58年(1983)6月
 橋本左内の墓及び小塚原の刑場跡を区記念物(史跡)に登録。
・平成17年(2005)12月
 回向院の境内整備に伴い、橋本左内の墓が同院史跡エリアに移されることになる。併せて保存処理が施される。
・平成18年(2006)1月
 回向院より套堂が区に寄贈され、解体のうえ、荒川ふるさと文化館に保管される。
 小塚原の刑場跡を区記念物(史跡)に指定。
・平成20年(2008)2月
 橋本左内の墓及び套堂、それぞれ単体で区登録有形文化財(歴史資料)に変更。
・平成21年(2009)3月
 套堂が荒川ふるさと文化館に復元され、落成式を行う。



   橋本左内の墓旧套堂復元と福井県との交流を記念して
 「橋本左内の墓旧套堂」(区登録有形文化財〔歴史資料〕)は、もと回向院(南千住5丁目)の境内入口にあったものです。平成18年(2006)、同院の境内整備の際、荒川区に寄贈されることになり、平成21年(2009)、ここに復元・保存されました。
 南千住には、この套堂場狩りではなく、福井県ゆかりの史跡や幕末の史跡が多く所在しています。回向院境内北側に新たに設けられた史跡エリアには、福井藩士橋本左内の墓、小浜藩士梅田雲浜の墓があり、また、回向院内には、小浜藩医杉田玄白らの「ターヘルアナトミア」の翻訳と「解体新書」の刊行を記念してつくられた観臓記念碑があります。これらは、地域の人びとにとって身近なものであり、福井県にとっても重要な史跡となっています。
 多くの方々のご協力を得て、この地に復元が叶った今、「橋本左内の墓旧套堂」は地域の歴史を伝えるモニュメントとして、また荒川区と福井県との交流の場として、新たなスタートを切ることになりました。
 平成21年(2009)3月26日 荒川区


所在地 荒川区南千住6-63 (荒川ふるさと文化館)

  瑞光小学校跡
 明治19年(1886)、当時の北豊島郡長、本橋寛成の勧めにより、千住南組の戸長、渡辺太三郎および、川村治兵衛・田中午太郎などの有志が、公立瑞光小学校の設置願を東京府知事に提出した。寄付金を募集して建設資金にあて、翌明治20年(1887)12月に開校した。南千住地域では最初の公立小学校だった。5つの教場を構え、当時としては豪華な校舎であったという。大正時代初期、南千住1丁目に移転した。跡地にはいくつもの学舎の変遷を経て、平成10年(1998)5月に区立南千住図書館・荒川ふるさと文化間が開館した。瑞光小学校の跡地にあった学校は次の通りである。
 ・第一瑞光小学校 大正9年(1920)~昭和21年(1946)
 ・第二中学校 昭和25年(1950)~昭和33年(1958)
 ・都立上野高校荒川分校 昭和25年(1950)~昭和35年(1960)
 ・都立荒川高校 昭和35年(1960)~昭和38年(1963)
 ・南千住中学校 昭和34年(1959)~平成元年(1989)
 (『荒川区教育史』による)  荒川区教育委員会


所在地 荒川区南千住6-67 (天王公園) 

  米倉屋敷跡
 宝永4年(1707)、当時下野国(栃木県)皆川藩主であった米倉計昌照が、この地に下屋敷を拝領した。享保16年(1732)、屋敷の北側部分が相対替えで、屋代氏の所有に移り、残りの南側部分も、翌享保17年(1733)に上知(幕府が屋敷地を収公すること)となり、米倉氏はわずか20数年で、この地を去ることになる。
 北側部分は、さらに土屋氏・池田氏・曲淵氏の屋敷地となるが、現在でも、この天王公園のあたりは、土地の人々から「米倉屋敷」とも呼ばれ、親しまれている。
 荒川区教育委員会


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