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東京都荒川区の歴史
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所在地 荒川区西尾久3-16-19

  阿弥陀三尊板碑(寳蔵院)
 寳蔵院(ほうぞういん)は、金亀山地正寺と号する。開山は寛永10年(1633)に没した奝賢、明治の初期まで閻魔堂があったが、火災で失った。所蔵する板碑は、下部が欠けていて、年未詳であるが、阿弥陀三尊の種子と天蓋・瓔珞が施されている。そのほか、元禄4年の願文が納められている木造不動明王、近世の山水画などを所蔵する。境内には、奝賢を供養するために造られて寛永10年銘の宝篋印塔、一石で造られた一石五輪塔などがある。また、地蔵山墓地(西尾久2-25)の同院管理墓地内には、万治元年(1658)銘ほか、4基の庚申塔が立っている。
 荒川区教育委員会





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所在地 荒川区西尾久 ~ 足立区小台





『 空を見る少女 』
                                      掛井五郎   KAKEI,Goro


所在地 荒川区西尾久5-3-24

 「条里南道」と記されたこの碑は、明治20年(1887)ころ、人文地理学者の小田内通敏が東京府史跡調査を行った際に、このあたりに残っていた条里制の遺構の保存を進言して建てられた。
 条里制とは、古代の耕地の区画制度であり、基盤の目のような整然とした地割りが行われた。このように区画された耕地は、7世紀末ごろ制定されたという班田収授の法に基づき、農民に口分田として分け与えられた。かつて荒川流域には多くの条里制の遺構があったが、現在では上・中流域にわずかにみられるのみである。
  荒川区教育委員会






所在地 荒川区西尾久3-7-3

     八幡神社と上尾久村村絵図
 所蔵の上尾久村村絵図(荒川区指定文化財)は神社を中心とする上尾久村の江戸時代の様子を物語る。図中には、農業用水の流路、7名の領主名と各領主付農民、村内の社寺などが記され、隣村の田端村や中里村との間で取り決められた用水に関する記述が三か所ある。制作年代は記されていないが、嘉永元年(1848)以後のものであると推定される。このほか同社には、享保14年(1729)銘の手水鉢や南北朝期の至徳2年(1385)銘をはじめとする棟礼等がある。同社の創建年代は不詳だが、棟礼の年号等から中世には当地の鎮守として勧請されていたと考えられている。
  荒川区教育委員会





       八幡神社と八幡堀
 八幡神社の創建は不詳であるが、鎌倉時代末期の正和元年(1312)に、尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃に遡ると考えられる。また、神社に残る棟札から、至徳2年(1385)には社殿が再建されたことこが確認できる。江戸時代に幕府が編纂した地誌『新編武蔵風土記稿』(文政11年〔1828〕)には、上・下尾久、船方三村の鎮守と記されている。
 八幡堀は、王子・上中里・田端・日暮里と流れる用水が八幡神社をとり囲んでいたもので、酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久3-4周辺)を経て、荒川(現在の墨田川)に注いでいた。川を往復する舟が八幡堀まで進み、交易で賑わい、神社の西側では下肥の積みおろしも行っていたという。
  荒川区教育委員会 

厳島神社


所在地 荒川区西尾久

 江戸時代、この地域には、石神井川から引かれた「八幡堀」と呼ばれる農業用水路が流れていました。昭和60年(1985)に尾久宮前小学校の子どもたちが、今は見えない川となってしまったこの水路について学習をはじめ、それがやがて地域ぐるみの取り組みとなり手づくりの絵本「ぼくらの音無川」にまとめられました。こうした地域活動は高い評価を得て、第40回読売教育賞の中で最優秀賞を受賞しました。
 荒川区は、こうした貴重な財産を永く将来に伝えたいと考え、この水路を「八幡堀プロムナード」と名付けて整備を行いました。
 東京都も、この都道付近が水路跡の一部であったことから、道路の整備に合せて、水路をイメージした圃ふぉ卯の整備を行いました。
 この地域の歴史に関する活動を記念し、ここに古地図のレリーフを設置します。
 平成12年(2000)12月 荒川区 荒川区教育委員会



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