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東京都荒川区の歴史
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所在地 荒川区南千住6-69

  誓願寺
 浄土宗の寺院で、豊徳山恵心院という。奈良時代末期(780ごろ)の草創で、長保元年(999)恵心僧都源信が天台宗寺院として開基したと伝える。その後、慶長元年(1596)、芝増上寺十八世定誉随波が、天台宗を改め浄土宗とした。
 本尊阿弥陀如来は、聖徳太子の作と伝える。源信が1枚の船板に彫刻した一光三尊の阿弥陀立像や、厄除地蔵などがあったが、現在は、阿弥陀立像を模して作られた版木(年未詳)を残すのみとなった。
 天正19年(1591)、徳川家康が巡覧した折りに腰かけたとおいう榎が2本あった。現在芸第二は、親の仇打ちをした子狸の伝承を残す狸塚、庚申塔2基、板碑、汐入村開祖高田氏の墓などがある。
 荒川区教育委員会



 
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所在地 荒川区南千住6-70

  熊野神社
 創建は永承5年(1050)、源義家の勧請によると伝えられる。
 大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄3年(1594)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行った。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。
 また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸(かし)とよばれ、陸路奥州道中と交叉して川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。
 荒川区教育委員会



所在地 荒川区南千住6-71

  千住の河岸
 江戸時代、千住大橋袂の河岸には、秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(『両岸渡世向書物』荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。
 材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。熊野神社には、弘化2年(1845)、千住のざいもくしょうが寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋は、江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。
 荒川区教育委員会


所在地 荒川区南千住7-15

  日慶寺の鬼子母神
 天文(1532~1555)の頃、日慶という比丘尼(びくに)が谷中に日慶寺を草創した。その後、3代将軍家光に仕えた円心院日相尼(にっそうに)が、宝永元年(1704)、千住南字砂尾と呼ばれたこの土地に、当時荒廃していた谷中日慶寺の遺号を引継ぎ、当寺を開創。そのため円心山日慶寺と号する。現存する鬼子母神像は、運慶作・家光感得といわれ、5代将軍綱吉から、開山日相尼へ下賜されたものと伝える。宝暦9年(1759)には、芝金杉(港区)円珠寺において、出開帳が行われている。また、区内最古で、釈迦の種子のある。正応2年(1289)4月日銘板碑を所蔵する。
 元文元年(1736)、9代将軍家重が三河島筋で鷹狩を行った際には、当寺が御膳所にあてられている。
 荒川区教育委員会


所在地 荒川区南千住7-16 

  千住宿
 慶長9年(1604)日本橋基点として五街道が定められた。奥州道中の第一の宿場が千住宿である。
 大橋南側から「コツ通り」にいたるこのあたりに小塚原町・中村町があって下宿とよばれ、問屋・各種商店・旅篭などがたち並んでいた。江戸の宿場のなかでは、この千住宿(本宿と下宿)が最も長い宿場通りであった。
 荒川区教育委員会


所在地 荒川区南千住2-34

浄土宗
 豊国山 延命寺 (小塚原刑場跡)

 江戸のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の2つである。
 小塚原の刑場は、間口六十間余(約180メートル)、奥行三十間余(約54メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。
 首切地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(1741)に造立されたものである。
 荒川区教育委員会


延命寺境内には『首切地蔵』があります。


所在地 荒川区南千住2-34 (延命寺)

  首切地蔵
 「小塚原の首切地蔵」は、江戸の刑死者をはじめとする無縁の供養のために小塚原の仕置場に建立されました。この地蔵尊は、鈴ヶ森と並び称された江戸の二大刑場の1つ「小塚原の仕置場」の象徴であり、柔和なお顔で時の流れを静かに見守り、江戸の歴史を今日に伝えてきました。

建立年代  寛保元年(1741)
法量     一丈二尺(約3.6m)
願主     東都浄心
石工     大阪西横堀 中村半六
材質等   花崗岩 20数個の石を組み合わせて建立

 もとは、隅田川貨物線の南側に安置されていましたが、明治28年(1895)、鉄道敷設工事のため現在地に移設されました。地元の南千住の皆様に「延命地蔵尊」と呼ばれ、暮らしの安穏を見守る地蔵孫として親しまれています。



 しかしながら、平成23年(2011)3月11日午後2時46分に発生しました東日本大地震により、延命地蔵尊の左腕が落下、また胴体部分も大きくズレが生じ、倒壊の危険性が高くなったことから、3月17日、荒川区文化財保護条例に基づく文化財修復のための補助を受け、第一期修復工事(解体施行:清水建設株式会社)を実施しました。
 平成23年(2011)3月吉日  延命寺住職 水野了尚

 


所在地 荒川区南千住6-60

  素盞雄神社
 小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。
 石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦14年(795)、荊石けいせきが微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。
 延暦年間(1751ー1764)頃まで行われていたという千住大橋綱曳は、その都市の吉凶を占う当社の神事で、『東都歳時記』(天保9年〔1838〕)にその雄壮な様が描かれている。
 荒川区教育委員会



    素盞雄神社と文人たち
 千住宿界隈や隅田川沿岸の社寺には、江戸の文人が残した碑が多く見られる。
 この境内にも、文人が建てた2基の碑がある。文政3年(1820)建立の松尾芭蕉の句碑と、旗本池田家の主治医の死を悼んで、天保12年(1841)に建てられた森昌庵追慕の碑である。
 芭蕉の句碑は、谷文晁の弟子で関屋在の建部巣兆・儒学者で書家としても名高い亀田鵬斎らが、森昌庵追慕の碑は、『江戸名所図会』などの挿絵で知られる長谷川雪旦、この近隣に住んでいた俳人・随筆家の加藤雀庵らがそれぞれ建碑にかかわった。
 これらの碑は、文人たちの交流を今日に伝えている。
 荒川区教育委員会



 境内には『天王社の大銀杏』、『瑞光石』、『庚申塔群三基』、『森昌庵追慕の碑』、『芭蕉碑』があります。


所在地 荒川区南千住6-60 (素盞雄神社)

荒川区指定有形民俗文化財
 庚申塔群三基(寛文十三年銘他)
     平成18年(2006)1月13日指定


 江戸時代に建てられた3基の庚申塔で、向かって左から、延宝6年(1678)銘、寛文13年(1673)銘、文化8年(1811)銘があります。
 庚申塔とは、60日に1度めぐってくる庚申の日に、寝ずに夜を明かす行事「庚申待」を3年間継続した所願成就の証しとして建てられたものです。
 中央の寛文13年(1673)銘の庚申塔は、聖観音が本尊です。聖観音の光背には「庚申講供養」と「念仏講供養」の文字が刻まれ、庚申信仰と阿弥陀信仰の習合が見られます。左の延宝6年(1678)銘の庚申塔は、如意輪観音が本尊です。月待信仰に関する勢至菩薩の種子しゅじが刻まれていて、庚申信仰と月待信仰との習合がうかがえます。施主として久兵衛、おとらなど男女15人の名が見えます。文化8年(1811)銘の庚申塔には「青面金剛」の文字が刻まれています。
 寛文13年(1673)銘と延宝6年(1678)銘の庚申塔は、造形上も優れており、他の信仰との習合も見られ、また3基の庚申塔から近世の庚申塔の変遷がうかがえ、学術的にも貴重なものであるといえます。
 平成20年(2008)3月 荒川区教育委員会


所在地 荒川区南千住6-60 (素盞雄神社)

  瑞光石ずいこうせき
 瑞光石は、素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩といわれ、「瑞光荊石ずいこうけいせき」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから、小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。
 嘉永4年(1851)には周囲に玉垣を築き、元治元年(1864)には浅間神社を祀った。
 万延元年(1860)に編纂された『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。
 荒川区教育委員会

 


所在地 荒川区南千住6-60 (素盞雄神社)

  天王社の大銀杏
 素盞雄神社境内は、古来より「あすかの森」と呼ばれ、銀杏などの大木が林立していた。『江戸名所図会』にも、境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。
 この大銀杏は、幹の周囲約3.3メートル、高さ約30メートルである。
 この木の皮を煎じて飲むと、乳の出が良くなるという伝承を持つことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり、現在も続いている。
 荒川区教育委員会



所在地 荒川区南千住6-60 (素盞雄神社)

  芭蕉碑
 千寿といふ所より船をあがれば
 前途三千里のおもひ胸にふさがりて
 幻のちまたに離別のなみだをそゝぐ

行はるや鳥啼魚の目はなみだ    はせを翁

 


所在地 荒川区南千住5-33

  回向院(小塚原の刑場跡)
 回向院は、寛文7年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。
 安政の大獄により刑死した橋本左内吉田松陰頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。
 明和8年(1771)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に『解体新書』を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正11年(1922)に観臓記念碑が建立された。
 荒川区教育委員会


    小塚原の刑場跡
 小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1,800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。
 小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。
 明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向印は顕彰、記念の地となっていきました。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。
 平成18年(2006)1月13日
 平成20年(2008)3月 荒川区教育委員会


 回向院境内には『観臓記念碑』、『吉田松陰墓』、『橋本左内墓』、『景岳橋本君碑』、『磯部浅一墓』、『高橋お伝墓』、『頼三樹三郎墓』、『梅田雲浜墓』、『相馬大作供養碑』、『鼠小僧墓』、『』、『』があります。


所在地 荒川区南千住5-33 (回向院)

  観臓記念碑
1771年・明和8年3月4日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。
その帰りみt3人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに1774年・安政3年8月に「解体新書」5巻をつくりあげた。
これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学が盛んになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。
さきに1922年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、1945年2月25日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。
 1959年 昭和34年3月4日
 第15回日本医学会総会の機会に
     日本医史学会 日本医学会 日本医師会


所在地 荒川区南千住5-33 (回向院)

  橋本左内墓
 橋本景岳先生は、天保5年(1834)3月11日、福井藩の藩医橋本長綱の長男として生れ、名を綱紀、通称を左内、号を景岳又は黎園といった。
 幼少の時から学問を好み、やがて藩儒の吉田東篁について儒学を学び、ついで大坂の緒方洪庵、江戸の坪井信良、杉田成卿等について蘭学を修め、その見識は当時の第一流の人々を驚かせるまでに至った。有名な「啓発録」は、嘉永元年(1848)、15歳の時、自戒のために書いたもので、先生の人物、思想は、すでにこの著書の中に示されている。
 嘉永6年(1853)のペルリ来航以来、わが国は急速に内外の問題が多事多難おなり、しかも藩主松平春嶽は、幕政改革の先頭に立っていたので、この俊秀なる青年を抜擢してその側近に加え、これより先生は公の理想の具現のために心血を注ぐこととなる。しかるに春嶽公の政策は、新たに大老に任ぜられた井伊直弼のそれと相容れず、公は幕命によって隠居慎しみを命ぜられ、ついで先生も幽因の身となり、翌6年10月7日、江戸伝馬町の獄内において死刑に処せられて、26歳の短い生涯を終えた。長州藩の吉田松陰とともに、安政の大獄において日本が失った最も惜しい人物である。
 先生刑死の日、同藩の長谷部恕連は、春嶽公の命を受けて先生の遺骸を小塚原の回向院、すなはちこの地に埋葬して、「橋本左内墓」と刻んだ墓表を建てたが、幕表は刑人の墓を建ててはならないといって、これを許さなかったので、改めて「黎園墓」の三字を刻んだものを建てた。しかるにその後、井伊大老は倒され、先生の罪も許されたので、文久3年(1863)5月、この墓石は遺骸とともに福井に移され、善慶寺の橋本家墓所に改葬されたが、明治26年(1893)、その墓石のみ、再び回向院のもとの地にもどして再建され、更に昭和8年(1933)、破損の甚だしくなった墓石を風雨より守るために新たに套堂が設けられて今日に至った。
 本堂の向って右に聳えている巨碑「橋本景岳之碑」は、明治18年(1885)、先生と信仰のあった福井藩士及び先生門下の人々によって建立されたもので、碑文は先生の盟友西郷隆盛の友人重野成斎の作により、巌谷修が書し、三條實美が蒙額したものである。
 昭和49年(1974)10月 景岳会




所在地 荒川区南千住6-43

荒川区登録有形文化財(歴史資料)
 旧千住製絨所煉瓦塀



 この煉瓦塀は、明治12年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側9.9メートル、南側8.4メートルで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っています。建設年代は、明治44年(1911)から大正3年(1914)頃と推定されます。
 千住製絨所は、ラシャ場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果していました。初代所長は、ドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三です。荒川総合スポーツセンター西側に井上省三の胸像が保存されています。
 当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設されましたが、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は32,406坪になりました。千住間道を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所などが旧敷地に該当します。
 千住製絨所の登場は、南千住地域の近代化に大きな影響を与えました。明治時代、汐入の2つの紡績工場(南千住8丁目)、石浜神社付近のガス会社(南千住3丁目)など大規模な工場が進出し、また隅田川貨物駅なども設置され、南千住は興行と商業の町へと変貌していきました。内務省、農商務省、陸軍省と所管が代わり、戦後、昭和24年(1949)には、大和毛織株式会社に払い下げられましたが、昭和36年(1961)に工場が閉鎖され、80年余利の羊毛工場の歴史に幕を閉じました。構内にあった工場の建物等は現存していないため、この煉瓦塀が千住製絨所に関する数少ない建造物であり、歴史的価値の高い文化財です。
 平成22年(2010)10月 荒川区脅威食う委員会


                       「千住製絨所正門」
 昭和初期ころの千住製絨所正門を撮影。画面左側が現存する煉瓦塀と考えられる。


 「大日本千住製絨裏面之図」  明治時代 江崎礼二撮影
 創建当初の千住製絨所の北東から撮影。
 荷物運搬用として荒川(現隅田川)から引いた堀があった。


           東京真画名所図解「千住ラシャ製造場」
   明治17年(1884)から明治22年(1889)  井上安治 画
 創建当初の千住製絨所を南東から描いた。
 松原大門の松並木と水辺の植物ハンノキの奥にある、水田に囲まれた千住製絨所の様子。


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