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東京都荒川区の歴史
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所在地 荒川区南千住5-33

  回向院(小塚原の刑場跡)
 回向院は、寛文7年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。
 安政の大獄により刑死した橋本左内吉田松陰頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。
 明和8年(1771)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に『解体新書』を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正11年(1922)に観臓記念碑が建立された。
 荒川区教育委員会


    小塚原の刑場跡
 小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1,800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。
 小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。
 明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向印は顕彰、記念の地となっていきました。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。
 平成18年(2006)1月13日
 平成20年(2008)3月 荒川区教育委員会


 回向院境内には『観臓記念碑』、『吉田松陰墓』、『橋本左内墓』、『景岳橋本君碑』、『磯部浅一墓』、『高橋お伝墓』、『頼三樹三郎墓』、『梅田雲浜墓』、『相馬大作供養碑』、『鼠小僧墓』、『』、『』があります。
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