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東京都荒川区の歴史
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所在地 荒川区南千住6-43

荒川区登録有形文化財(歴史資料)
 旧千住製絨所煉瓦塀



 この煉瓦塀は、明治12年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側9.9メートル、南側8.4メートルで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っています。建設年代は、明治44年(1911)から大正3年(1914)頃と推定されます。
 千住製絨所は、ラシャ場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果していました。初代所長は、ドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三です。荒川総合スポーツセンター西側に井上省三の胸像が保存されています。
 当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設されましたが、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は32,406坪になりました。千住間道を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所などが旧敷地に該当します。
 千住製絨所の登場は、南千住地域の近代化に大きな影響を与えました。明治時代、汐入の2つの紡績工場(南千住8丁目)、石浜神社付近のガス会社(南千住3丁目)など大規模な工場が進出し、また隅田川貨物駅なども設置され、南千住は興行と商業の町へと変貌していきました。内務省、農商務省、陸軍省と所管が代わり、戦後、昭和24年(1949)には、大和毛織株式会社に払い下げられましたが、昭和36年(1961)に工場が閉鎖され、80年余利の羊毛工場の歴史に幕を閉じました。構内にあった工場の建物等は現存していないため、この煉瓦塀が千住製絨所に関する数少ない建造物であり、歴史的価値の高い文化財です。
 平成22年(2010)10月 荒川区脅威食う委員会


                       「千住製絨所正門」
 昭和初期ころの千住製絨所正門を撮影。画面左側が現存する煉瓦塀と考えられる。


 「大日本千住製絨裏面之図」  明治時代 江崎礼二撮影
 創建当初の千住製絨所の北東から撮影。
 荷物運搬用として荒川(現隅田川)から引いた堀があった。


           東京真画名所図解「千住ラシャ製造場」
   明治17年(1884)から明治22年(1889)  井上安治 画
 創建当初の千住製絨所を南東から描いた。
 松原大門の松並木と水辺の植物ハンノキの奥にある、水田に囲まれた千住製絨所の様子。
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