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東京都荒川区の歴史
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所在地 荒川区南千住6-48

  下谷道
 下谷広小路・坂本・三の輪・下谷通新町を通り、素盞雄神社の所で右におれ奥州街道(現コツ通り)に合流する道は、江戸時代、日光道などともよばれ、東叡山門主で日光山門主も兼ねていた輪王寺宮が日光に行く際の道とされていた。周辺には大名屋敷や寺院・町家が軒を連ね賑わったという。
 現在の国道4号線(日光街道)がほぼこの道筋にあたるが、道路の拡張や改修によってその姿は変ってしまった。素盞雄神社に至るこの道は、かろうじて旧道の面影を止どめている。
 荒川区教育委員会
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所在地 荒川区南千住7-23 
 
  山王清兵衛(日枝神社)
 日枝神社は、江戸時代山王社とよばれた旧中村町(千住宿)の鎮守であり、正和5年(1316)に建てられたと伝える。
 この社の入り口にあたる旧砂尾土手北端に歯神清兵衛を祀った小祠がある。いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという。俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名であった。
 荒川区教育委員会

 


所在地 荒川区南千住6-45

  井上省三胸像

嗚呼贈従五位勲六等井上省三君胸像也君為人異彩横溢青衿覧子獨國勵志究毛織之技歸為千住製絨所初代長官經略甚勉蓋皇國斯業之隆是為其濫觴矣従是相踵挹注於茲終放懐襄之洪者維其厥初有君而存也嗟乎君逝會五十年今茲丙子温故者聞風者鑄而寘諸熱海千住両庭設奠致祭寛祐以第八代所長履君軌躅者繋以銘曰武水澎浡豆山蔚蒼卓乎雄姿永胎子後人之懐望
 昭和十一年十二月十四日
  陸軍主計監従四位勲三等功
   四級濱名寛祐撰
  第十八代所長陸軍主計監正
   五位勲三等鹿野澄書






所在地 荒川区南千住6-45

  井上省三君碑
 この碑は、官営国場千住製絨所初代所長・井上省三の功績を後世に伝えるものである。
 井上省三は、長州(現山口県)出身で、木戸孝允に従って上京、後にドイツに留学し毛織物の技術を修得した。明治12年(1879)の千住製絨所の開業、日本羊毛工業の発展に尽力したが、明治19年(1886)に42歳の若さで死去。明治21年(1888)に制絨所の職員・職工の有志が、井上省三の偉業をしのびこの碑を建立した。
 上部の題字と撰文は、井上省三と同郷で、交遊のあった、後の外務大臣青木周蔵と東京農林学校(後の東大農学部)教授松野礀による。
 荒川区居行く委員会


  井上侯壽像碑
是為井上侯壽像侯今年​七十六氣力旺盛鬚髪尚​黒無毫老憊態吾儕當辱​侯知遇致有今日因胥謀​請建像壽之侯不聴衆請​弗已始見許乃相侯之興​津別墅為置像之所命工​閲二百餘日而成歳之十​一月廿八日値侯之誕辰​招衆賓落之以余与侯四​十餘年親交衆属余記之​侯経濟功績赫著史乗喧​傳世上而吐握下士之勞​實致此王臣為国家蹇蹇​宜如此也夫興津之地衿​富岳帯大洋遠控三保近​接清見洲渚點綴烟波渺​茫稱為東海絶勝侯夙置​別墅于此設園池築亭榭​鑿山引泉水懸髙厓而下​珠噴雪望之如匹練聴之​如琴築侯時来遊嘯詠自​適以娯老豈古詩所謂英​雄四首即神仙者欤且侯​昔日翻攘夷倡通好遭反黨要撃被重創而​不死如有神助近歳罹病​於此別墅九死得一生非​天眷而何天眷神助是不​獨侯之幸亦邦家之慶也​然則吾儕建像之挙不啻​報知遇亦表邦家之慶也​乃誌建像之顛■


所在地 荒川区南千住6-45

  千住製絨所跡
 この付近一帯には、明治12年(1879)に創業された官営の羊毛工場である千住製絨所があった。
 工場建設用地として強固な基盤を持ち、水利がよいことから、隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地(現南千住6-38~40、45付近)が選定された。敷地面積8,300余坪、建坪1,769坪の広大なものであった。明治21年(1888)に陸軍省管轄となり、事業拡大とともに、現荒川総合スポーツセンターあたりまで敷地面積が拡張された。
 構内には生産工場にとどまらず、研究施設や福利施設などが整備され、近代工場の中でも先進的なものであった。
 戦後民間に払い下げられ、昭和37年(1962)、敷地の一部は野球場「東京スタジアム」となり、人々に親しまれてきた。
 一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。
 荒川区教育委員会

 


所在地 荒川区南千住6-45

  日本羊毛工業発祥の地
 明治12年(1879)この地に官営の千住製絨所が設立された。
それまで輸入に頼っていた羊毛製品の国産化を意図して建てられたもので、初代所長にはドイツで毛織物技術を学んだ井上省三(1845~1886)を迎え、ここに日本の羊毛工業が始まった。
昭和20年(1945)操業が停止するまでの70年間、大規模な毛織物の製造が行われ日本の羊毛工業の発展に寄与した。
地域の人々から「ヤシャ場」と呼ばれた赤煉瓦洋風建築のこの工場は、荒川区が近代工業地帯として発展するきっかけとなった。


所在地 荒川区南千住6-35

  若宮八幡神社と八幡太郎義家伝説
 若宮八幡の名のとおり仁徳天皇を祭神とする。平安時代、奥州攻めに向かう八幡太郎義家(源義家)が、荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたとも伝える。足立区千住仲町の白幡八幡は、この白幡が納められた神社という言い伝えを持ち、この付近が古くから渡河地点であったことを推測させる。
 婦人の病に効験があるとされ、祈願して治った時には二股大根を描いた絵馬を奉納するという。近隣の崇敬を受け、平成14年(2002)に社殿の新造営が行われた。
 荒川区教育委員会

 


所在地 荒川区南千住7-24

  東京電灯千住発電所(千住火力発電所跡)
 東京電灯千住発電所(以下千住発電所)は明治39年(1906)に、南千住7丁目24~25番地、現在の区立南千住第二中学校付近に完成した。
 現在の火力発電は、原動機に蒸気タービンを用いる方式が主流であるが、千住発電所はその先駆けの1つとして日本の電気事業史に名を残している。
 出力4千5百ワットの大規模な設備を持つ火力発電所であったが、火力発電の開発・台頭などに押されて、大正6年(1917)に廃止された。
 昭和30年(1955)ごろまで、付近には隅田川に注ぐ堀があり、電灯堀と呼ばれた。千住発電所の名残である。
 荒川区教育委員会

 


所在地 荒川区南千住8-11

  汐入(胡録神社)
 汐入の地は、戦国時代に上杉謙信の家臣高田氏らが、川中島合戦の際に落ちのびて、開発したと伝えるところである。明治以前、『第六天』と呼ばれた胡録神社は、汐入の境である当地を守護するために祀られたという。現在残る本田は、幕末から明治初期の様式を今に伝えている。



 明治の中頃まで胡粉の製造が盛んで、今も胡粉の製造に使用した石臼や、それを転用した石灯籠が、当社や第五瑞光小学校に残されている。昭和27年(1952)、胡録神社に奉納された襖絵には、山と積まれた牡蠣殻が描かれ、往時の面影をしのぶことができる。



 また、江戸時代、汐入大根(二年子大根)の産地としても知られ、千住の青物市場などに出荷されていたという。
 荒川区教育委員会

 


所在地 荒川区南千住3-28-58 

 石浜神社(石濱神社)
   〔石浜城跡〕


 石浜神社は聖武天皇の神亀元年(724)に創祀され、中世においては千葉氏などの崇敬を集めて大いに栄えたと伝えられている。また朝日神明宮とも称し、伊勢詣でのかわりに参詣する人々が絶えなかったという。
 隅田の渡しは、平安時代の編纂物の『類聚三代格』や、歌物語である『伊勢物語』にも記される渡しで、この辺りは古くから交通の要衝の地として賑わいをみせていた。
 石浜神社境内には、隅田の渡しを背景にした歴史と口径を偲ばせる「伊勢物語の歌碑」や「亀田鵬斎の詩碑」(区指定文化財)が残る。
 


 境内には『亀田鵬斎の詩碑』、『麁香神社関係資料』、『真先稲荷と田楽茶屋』、『庚申塚』、『』、『』、『伊勢物語の歌碑』があります。


                         招来稲荷神社・白狐祠・富士遙拝所


所在地 荒川区南千住3-28-58 (石浜神社)

  真先稲荷と田楽茶屋
 真先(崎)稲荷は、天文年間(1532~1554)、石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝える。もと隅田川沿岸にあり、その門前は景勝地として知られていた。また、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」は、大願の三囲稲荷の狐と並んで有名であったという。
 江戸中期から参詣する人が多くなり、宝暦7年(1757)ころには、吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋・川口屋などの茶屋がたち並んで、おおいに繁昌した。吉原の遊客もよく当地を訪れ、「田楽で帰るがほんの信者なり」など、当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれている。
 荒川区教育委員会


所在地 荒川区南千住3-28-58 (石浜神社)

  麁香神社関係資料あらかじんじゃ
 麁香神社は石浜神社の摂社で、本殿西の中庭内にある。祭神は手置帆負命と彦狭知命。この二神は工匠守護の祖神で、江戸時代には建築関係者の信仰を広く集めた。ここに立つ天保5年(1834)銘の麁香神社建立の碑、安政4年(1857)銘の日本大工祖神の碑は、幕府御用職大工方・屋根方等の工匠が建てたものである。このほか、安永3年(1774)銘の由来を記した板、安政(1854~1860)の銘の扁額がある。


所在地 荒川区南千住7-23

  砂尾堤と砂尾長者
 南千住7丁目20番地付近から現在の隅田川に沿って台東区今戸に向かう道は、土手になっていて砂尾堤と呼ばれた。中性の石浜に砂尾長者とよばれる土豪が住み、この地を領していたことに因むという。石浜の地は古代から、武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県東部)と下総国(千葉県北部・茨城県南部・東京都東部)をつなぐ交通の要地であり、砂尾長者は、15世紀半ば千葉氏が内紛により下総国を逃れ石浜に入った後、家臣としてこの地に住んだといわれる。台東区橋場にある砂尾不動院の開基とも、中興ともいわれる人物である。
 この一帯は昔から広範囲にわたりしばしば水害に見舞われた。汐入堤とも呼ばれたこの堤近くには昭和初期まで、砂尾・堤根という字が残っていた。
 荒川区教育委員会


                       明治20年代の砂尾堤 原図『荒川区史上』


所在地 荒川区南千住8 ~ 足立区

  千住汐入大橋(汐入の渡し跡)






 


所在地 荒川区南千住2-1-12 (浄閑寺)

  ひまわり地蔵尊
昭和57年(1982)12月11日建立開眼
創作者 倉田辰彦(群馬県出身)
発願主 山谷老友会
主旨 
 山谷には、労働に生き労働に老いて、ひとり淋しく人生を終る人が数多くいます。山谷老友会は、孤独の壁をこえて連帯し、はげましあい、またささえあってきましたが、死後の安心なしには、真の生活の安らぎがないところから、ひまわり地蔵尊の建立を思いたちました。ひまわりの花は、太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇労働者のシンボルといえます。
 この地蔵尊は、倉田辰彦氏をはじめ、多くの方々のご好意と浄財が寄せられて実現したものです。
 榮法山浄閑寺廿五世暢譽代


所在地 荒川区南千住2-1-12 (浄閑寺)

  永井荷風文学碑
今の世のわかき人々
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の藝術を。
われは明治の兒ならずや。
その文化歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり。
團菊はしをれて櫻癡は散りにき。
一葉落ちて紅葉は枯れ
緑雨の聲も亦絶えたりき。
圓朝も去れり紫蝶も去れり。
わが感激の泉とくに枯れたり。
われは明治の兒なりけり。
或年大地俄にゆらめき
火は都を燬きぬ。
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。
江戸文化の名残烟となりぬ。
明治の文化また灰となりぬ。
今の世のわかき人々
我にな語りそ今の世と
また来む時代の藝術を。
くもりし眼鏡ふくとても
われ今何をか見得べき。
われは明治の兒ならずや。
去りし明治の世の兒ならずや。
 「震災」
   「偏奇館吟草」より



明治・大正・昭和三代にわたり詩人・小説家・文明批評家として荷風永井壮吉が日本藝林に遺した業績は故人歿後益々光を加へその高風亦ようやく弘く世人の仰ぐところとなった 谷崎潤一郎を初めとする吾等後輩42人故人追慕の情に堪へず故人が生前「娼妓の墓亂れ倒れ」(故人の昭和12年〔1937〕6月22日の日記中の言葉)てゐるのを悦んで屢く杖を曳いたこの境内を選び故人ゆかりの品を埋めて荷風碑を建てた
 荷風死去4周年の命日
 昭和38年(1963)4月30日
   荷風碑建立委員会


所在地 荒川区南千住2-1-12 (浄閑寺)

  三遊亭歌笑塚 実篤書

古よりの言の葉に、山紫水明の地、必ず偉人を生じるとかや。アアされどわれ未だ偉人の部類に属することかなわず。若き落語家歌笑をはぐくみし故郷は南奥多摩絶景の地なり
 歌笑純情詩集より


所在地 荒川区南千住2-1-12 (浄閑寺)

  本庄兄弟首洗井戸
白井権八に返り討ちに遭った本庄兄弟の弟 助八も兄 助七の首を洗うところを無惨にも権八のために討ち果された。 二人の霊を慰めんと首塚が建てられている。


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