東京都荒川区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 荒川区東日暮里3-10ー17(第三日暮里小学校前) 夕焼け小焼けの塔 (夕やけこやけの塔・ゆうやけこやけの塔) 作詞者 中村雨紅(中村雨虹)先生の略歴 ・明治30年(1897) 2月6日、高井宮吉(本名)、東京府南多摩郡恩方村上恩方の宮尾神社境内社務所にて、生まれる。 ・大正5年(1916) 東京府立青山師範学校卒業。 日暮里町第二日暮里小学校へ奉職。 ・大正6年(1917) 南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となる。(大正12年〔1923〕養子縁組解消) ・大正7年(1918) 日暮里町第三日暮里尋常小学校着任(大正13年〔1924〕3月まで)。 第三日暮里小学校の児童の情操教育のために、同僚の訓導矢沢先生らとともに回覧文集を始め、童話の執筆を始めた。 ・大正8年(1919) 童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載された。しかし、教案を書く邪魔になると校長に叱られ以後、道を歩きながらでも考えられる童謡製作に専念するようになった。 野口雨情と出会う。その後、中村雨紅の筆名をもって、童謡を発表した。この筆名は、野口先生のようにえらくなりたいので「雨」の一字をもらい、「染まる」という意味の「紅」をつけて雨紅としたのである。 名曲「夕焼け小焼け」の詞もこの頃の作である。 ・大正12年(1923) 漢学者、本城問停の次女 千代子と結婚、根岸の「お行の松」の裏手に住む。 文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載された。この名曲は、武蔵野音楽大学校長の福井直秋先生の依頼を受けて渡した詩に、作曲者草川信先生によって曲がつけられて誕生しました。 ほどなく関東大震災のため、多くの楽譜が失われた。焼け残った13部の楽譜を元に「夕焼け小焼け」は歌い拡がっていった。 ・大正13年(1924) 板橋尋常高等小学校へ転任。 ・大正15年(1926) 滝野川高等小学校着任。 ・昭和元年(1926) 神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)着任。 ・昭和24年(1949) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職、教職を終える。 ・昭和31年(1956) 雨紅の還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の善行合唱が行われた。 以後、雨紅ゆかりの各地にて「夕焼け小焼け」の歌碑が建てられている。 ・昭和47年(1972) 雨紅病気入院の報に、全国から見舞い・激励の手紙が寄せられたが、回盲部腫瘍のため逝去した。(享年75才) 若き中村雨紅先生が本格的に童話・童謡創作活動を開始し、「夕焼け小焼け」等を作詞したのは第三日暮里小学校に勤務されていたころです。 この縁を喜びとして、昭和59年(1984)、第三日暮里小学校の地域の方々によって「夕焼け小焼けの塔」が建てられました。 PR |
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