東京都荒川区の歴史
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所在地 東京都荒川区南千住2-1-12 PR 所在地 荒川区西尾久3-16-19 阿弥陀三尊板碑(寳蔵院) 寳蔵院(ほうぞういん)は、金亀山地正寺と号する。開山は寛永10年(1633)に没した奝賢、明治の初期まで閻魔堂があったが、火災で失った。所蔵する板碑は、下部が欠けていて、年未詳であるが、阿弥陀三尊の種子と天蓋・瓔珞が施されている。そのほか、元禄4年の願文が納められている木造不動明王、近世の山水画などを所蔵する。境内には、奝賢を供養するために造られて寛永10年銘の宝篋印塔、一石で造られた一石五輪塔などがある。また、地蔵山墓地(西尾久2-25)の同院管理墓地内には、万治元年(1658)銘ほか、4基の庚申塔が立っている。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区西日暮里2-49 鍛冶稲荷神社縁起 当正一位鍛冶稲荷大明神は、伏見稲荷大明神を主神として江戸時代の初期、実蔵坊(現在、杉並区高円寺 長善寺)の地内、北豊島郡新掘村大字谷中本字居村上に創建され、のち明暦2年(1656)当地に遷座されたと伝えられています。当時から火伏せの神として村人の厚い信仰をあつめました。 近年は家業の繁栄・交通安全・学業成就・家内の安全を祈る参拝者が多くなっております。ここ谷中本(現在の西日暮里2丁目) は、生姜が多く作られていました。以来、谷中は生姜の代名詞として有名です。社殿は、昭和20年(1945)の空襲で焼失したのち現在の地に移り昭和49年(1974)5月に改築されました。毎年5月に行われる例祭は、遠く農業を営んでいた先祖から引継いでいる行事です。 平成3年(1991)11月吉日 鍛冶稲荷講 所在地 荒川区西日暮里3-2-6 大黒天 経王寺 経王寺は日蓮宗の寺院で山郷を大黒山と称す。明暦元年(1655)、当地の豪農冠勝平(新堀村の明主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。 慶応4年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区西日暮里3-2-14 木造毘沙門天像(啓運寺) 啓運寺は、法華宗(本門流)の寺院で、法要山と号す。上野にあったが、明治18年(1885)に現在地に移転。毘沙門天は、多聞天ともいい、四方を守護する四天王の一つであるが、独立して福徳富貴の神としても信仰されている。 当寺の毘沙門天は、台座の裏に「寛政9年(1797)8月吉辰、仏師伊東光雲」の墨書銘がある。そのほか、境内には、延宝8年(1680)銘の庚申塔がある。この塔には、「三守庚申三尸伏、妙法、七守庚申三尸滅」の銘文のほか36名の施主名が刻まれており、区内唯一の日蓮宗系の庚申塔である。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区西日暮里3-3-8 養福寺と文人たち 養福寺は真言宗豊山派の寺院で、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の木食義高(享保3年〔1718〕没)によって中興されたという。 江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里(ひぐらしのさと)」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる『談林派歴代の句碑(区指定文化財)』や、江戸の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた『柏木如亭の碑』、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区西日暮里3-3-8 (養福寺) 荒川区指定文化財 養福寺仁王門 平成2年(1990)3月20日指定 この仁王門は、宝永年間(1704~1711)の建築と伝えられる。表側に安置されている仁王像の胎内から宝永4年(1707)の銘札が発見されており、門柱の上部等の木鼻・蟇股などにほどこされた渦文の絵様から、銘札とほぼ同年代のものと推定される。裏側には四天王のうちの、広月天・多聞天の像が安置されている。旧本堂など江戸期の建造物は戦火で失ったが、この仁王門は焼失を免れ、近世建造物として現在にその姿をとどめている。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区西日暮里3-3-12 明治13年(1880)5月、谷中天王寺門前の瑞輪寺境内にあった寺子屋が、日暮里6番地(現諏訪台ひろば館あたり)に分離移転したという。 その後、公立小学校設置の必要性に迫られていた日暮里村・谷中本村・谷中村の三村が、東京府知事に設置を嘆願。明治18年(1885)に認可され、公立日暮小学校が誕生した。開校当時、児童数36名、教員2名・1学級で、校舎は萱葺15坪(約50平方メートル)一棟の規模であったという。 大正2年(1913)、校名を第一日暮里尋常高等小学校と改称。昭和11年(1936)11月、日暮里9丁目1080番地、旧星雲寺内(現在の区立第一日暮里小学校)に新築移転した。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区西日暮里3-4-3 江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺) 山門をくぐって左手に、高さ1文(約3メートル)の銅造地蔵菩薩がある。元禄4年(1691)、空無上人の勧化により江戸東武6か所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。 浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文2年(1737)、8代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、元文5年(1740)以降御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。 眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区西日暮里3-4-8 信濃国(長野県)上諏訪社と同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀る。当社の縁起によると、元久2年(1205)、豊島左衛門尉経泰(としまさえもんのじょうつねやす)の造営と伝える。江戸時代、三代将軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた。 旧暦7月27日の祭礼では、囃屋台・山車をひきまわし神輿渡御が行われた。神田芋洗橋までかつぎ、そこから船で浅草・隅田川を経て、荒木田の郷で御神酒をそなえて帰座したと伝えている。 拝殿 拝殿の脇には元禄12年(1699)銘・元禄14年(1701)銘の燈籠型の庚申塔が並んで建てられている。 荒川区教育委員会 神楽殿 「諏方神社」御社名に就いて 当社は、信州・諏訪大社の御分社ですが、御社名は「諏方神社」と申し上げます。この「諏方」は古来の表記であり、御社名や古文書等に使用例を見ることができます。 抑も信州・諏訪地方は往古、「洲羽」「須波」などと表されていましたが、和銅6年(713)の”畿内七道諸国郡郷の名は好き字を著けよ”(続日本紀)の制以降「諏訪」となったようです。しかし中世から近世にかけて「諏方」の表記も併せて多く用いられるようになり、その傾向は国の記録や公の文書にも及び、大社に納められた奉納の品にも見られました。こうした中、天保5年(1834)、諏訪・高島藩に於いては、「諏訪」と書く旨指令が出されるという動きもありましたが、近年に至り全国的に地名、人名などに於て「諏訪」が通常の表記となり、御社名などに残っていた「諏方」は使われなくなっていったようです(現在、御社名としては、全国の御分社8千有余社の内数社にみられます)。 当社におきましては、所蔵する元禄時代の軸(細井廣澤書)に「諏方大明神」とあることに拠りまして「諏方神社」を御社名としています。 御嶽山大神・八海山大神・三笠山大神 諏方大明神略縁起 源義朝家臣豊島兵四郎、義朝落命後の永暦元年(1160)生国信州下諏訪に蟄居、諏訪明神を信心し、再び源氏に忠勤せんと願うも病に相果てり。子息平六郎困窮甚だしき余り、家の再興を諏訪明神に祈誓せるに霊夢あり。現れたる貴人の宣託に従いて湖水に向かうに、水中より光の発するを見、潜りてその元を尋ねるに御神体と思しき物を得。平六郎之を祀りて朝夕信心せるに家は漸く栄え、治承4年(1180)の頼朝挙兵に於ては軍功数度に及び、此れに仍って元久2年(1205)、武蔵国中豊島郡を領地に賜る。是より豊島左衛門経泰と名告り、信州より遷奉る御神体を東の方、山麓に奉祀せり。扠、嫡子左近太郎の代に至りて家は没落せるも社は其の儘に在りしが、或る時、盗賊の押し入りたる事有り。御神体を持ち手逃げ去りしが、途上、俄かに立ち竦みたるに、土民此れを取り押さえ、御神体を社へ遷し奉りき。土民等此処を以て其の神徳を敬い、産土神と仰ぎ奉れり。その後時を経、山上開削されし折、麓より当地に遷し奉りき、と伝えたり。 三宝荒神社 三峰神社 所在地 荒川区西日暮里3-4-8 (諏方神社 神楽殿) この人形はだしにしつらえ、御輿とともに巡行したもので、平安時代末期武勇に猛けた「源為朝」鎮西八郎為朝公を擬してある。製作年は安政(1854~1860)とあるが作者は現在不詳。 当時の日暮里諏方様の山車は、江戸の中でも有名であり且つ格式の高いものであった。特に日清戦勝の祝賀会が皇居前広場で行われた時、東京中の山車が勢揃いした。その勢揃いの順位が 3番目、道中鳶頭連中が木遣りと芸者の手古舞を、2頭の牛車が引いて参列し妍を競ったといわれる。 明治の終わり頃までは本祭りのたびに牛と子供連中に曳かせたが、その後土地の発展に従い電線などにより不可能となり、氏子有志が組織した「祖崇会」が維持管理し人形だけ飾った。戦後からそれが自然と消滅して、人形は倉庫の中に保管したがその痛みが激しく、このままでは朽ち惜しいということで、金子正男・工藤三郎両氏相計い昔日の姿に復元したものである。 平成元年(1989)10月27日 平塚春造記 所在地 荒川区西日暮里3-7-29 太平洋美術会は、明治35年(1902)にその前身である太平洋画会が創設されて以来、明治、大正、昭和、平成の四世代のわたる輝かしい伝統を築き上げてきた、我が国の洋画及び彫刻界における最古の歴史を誇る団体です。 明治37年(1904)に谷中清水町に洋画研究所を開設後、昭和4年(1929)に研究所を太平洋美術学校と改め、官立の学校に対抗し、在野の立場から坂本繁ニ郎、中村彝、高村智恵子など、幾多の英才鬼才を我が国洋画壇に送り込んできました。 昭和20年(1945)3月の戦災による校舎焼失後、会員一同の協力により、諏方神社前のこの場所に再建され、昭和32年(1957)、名称を太平洋美術会と改め、現在に至っています。 平成7年度開始の「ディスカバーあらかわ 区内の風景画展」「荒川区を描く絵画講習会」開催など、荒川区の芸術・文化振興にも多大な貢献をされています。 平成14年(2002)に100周年を迎えた伝統あるこの団体が荒川区に本拠を構えていることは、荒川区民の誇りとするところであり、ここに太平洋美術会の足跡を記し、その功績を讃えるものであります。 平成19年(2007)9月 荒川区 所在地 荒川区西日暮里3 坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。 都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。 荒川区教育委員会 日暮里の富士見坂から実際に美しい富士山の姿が見られることから、「関東の富士見百景」に選定されています。秋から冬の空気が澄んでいる晴れた日が見頃です。 所在地 荒川区東日暮里3-10ー17(第三日暮里小学校前) 夕焼け小焼けの塔 (夕やけこやけの塔・ゆうやけこやけの塔) 作詞者 中村雨紅(中村雨虹)先生の略歴 ・明治30年(1897) 2月6日、高井宮吉(本名)、東京府南多摩郡恩方村上恩方の宮尾神社境内社務所にて、生まれる。 ・大正5年(1916) 東京府立青山師範学校卒業。 日暮里町第二日暮里小学校へ奉職。 ・大正6年(1917) 南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となる。(大正12年〔1923〕養子縁組解消) ・大正7年(1918) 日暮里町第三日暮里尋常小学校着任(大正13年〔1924〕3月まで)。 第三日暮里小学校の児童の情操教育のために、同僚の訓導矢沢先生らとともに回覧文集を始め、童話の執筆を始めた。 ・大正8年(1919) 童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載された。しかし、教案を書く邪魔になると校長に叱られ以後、道を歩きながらでも考えられる童謡製作に専念するようになった。 野口雨情と出会う。その後、中村雨紅の筆名をもって、童謡を発表した。この筆名は、野口先生のようにえらくなりたいので「雨」の一字をもらい、「染まる」という意味の「紅」をつけて雨紅としたのである。 名曲「夕焼け小焼け」の詞もこの頃の作である。 ・大正12年(1923) 漢学者、本城問停の次女 千代子と結婚、根岸の「お行の松」の裏手に住む。 文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載された。この名曲は、武蔵野音楽大学校長の福井直秋先生の依頼を受けて渡した詩に、作曲者草川信先生によって曲がつけられて誕生しました。 ほどなく関東大震災のため、多くの楽譜が失われた。焼け残った13部の楽譜を元に「夕焼け小焼け」は歌い拡がっていった。 ・大正13年(1924) 板橋尋常高等小学校へ転任。 ・大正15年(1926) 滝野川高等小学校着任。 ・昭和元年(1926) 神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)着任。 ・昭和24年(1949) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職、教職を終える。 ・昭和31年(1956) 雨紅の還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の善行合唱が行われた。 以後、雨紅ゆかりの各地にて「夕焼け小焼け」の歌碑が建てられている。 ・昭和47年(1972) 雨紅病気入院の報に、全国から見舞い・激励の手紙が寄せられたが、回盲部腫瘍のため逝去した。(享年75才) 若き中村雨紅先生が本格的に童話・童謡創作活動を開始し、「夕焼け小焼け」等を作詞したのは第三日暮里小学校に勤務されていたころです。 この縁を喜びとして、昭和59年(1984)、第三日暮里小学校の地域の方々によって「夕焼け小焼けの塔」が建てられました。 所在地 荒川区東日暮里5-2-1(第二日暮里小学校前) ゆうやけこやけの碑(自筆) この歌の作者 中村雨紅(本名 高井宮吉)氏は大正5年(1916)、青年教師(訓導)として第一歩を本校で歩み始めました。その後、第三日暮里小学校が開校し異動しました。 そのころ「ゆうやけこやけ」の歌がうまれました。校舎の壁面のモチーフは、夕やけを表現したものです。そのほかにも、作者直筆の色紙などを大切にしています。 荒川区立第二日暮里小学校 所在地 荒川区東日暮里5-40 御隠殿は、宝暦4年(1754)上野寛永寺門主輪王寺宮の隠居所となった。御隠殿橋は、その正門前の音無川にかけられた橋であった。 橋の長さ約2.7メートル、幅約3.9メートル、石材でつくられた立派な橋であったが、昭和8年(1933)音無川暗渠工事で取り除かれ、橋げただけが道路の下に残っている。 往時、このあたりは水鶏の名所で、やや下流には水鶏橋がかかっていた。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区東日暮里5-41-14 将軍橋と芋坂(善性寺) 善性寺は日蓮宗の寺院で、長享元年(1487)の開創と伝える。寛文4年(1664)6代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。 宝永年間(1704~1711)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。 善性寺の向い、芋坂下には文政2年(1819)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。 芋坂も団子も月のゆかりかな 子規 荒川区教育委員会 不二大黒天 隼人稲荷 所在地 荒川区東日暮里5 ~ 台東区谷中 善性寺の門前から谷中墓地へのぼる坂。坂名の由来は未詳。 明治15年(1882)ころ、日本鉄道会社の東北線(現JR)が通じて分断され、その形状が、失われてしまった。伊藤晴雨が描いた「根岸八景」の「芋坂の晩鐘」は、天王寺の五重塔を望む芋坂の、のどかなたたずまいをよくあらわしている。 荒川区教育委員会 いも坂みち 自然薯(山芋)がこの付近で取れたことに因むこの坂みちは、彰義隊士の退口であったとも伝えられている。慶應4年(1868)5月15日、上野の戦争で敗れた彰義隊士数百名は、かねて定めていた芋坂の退却路に到達、官軍の追跡を逃れる為、台上から北方遥かな日光を目指し落ちて行くことに衆議一決。手負い数名を乞われる儘に絶命させ、芋坂を駆け下りたと云う。 その折数名が当店に侵入、刀、槍を縁下に投げ込み、野良着に変装して行った。その彰義隊士の遺したものは当店舗内に展示してある。 羽二重団子 所在地 荒川区南千住~足立区千住橋戸町 ”千住大橋”は”千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って4年目の文禄3年(1594)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。 当初は、ただ”大橋”と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから”千住”の地名を付して呼ばれるようになった。 江戸時代の大橋は木橋で、長さ66間(約120メートル)、幅4間(約7メートル)であった。 奥州・日光・水戸産街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、30余藩の大名行列がゆかう東北への唯一の大橋であった。 松尾芭蕉が、奥州への旅で、人々と別れたところも、ここである。 現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和2年(1927)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和48年(1973)、新橋がそえられた。 昭和59年(1984)3月 東京都
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