東京都荒川区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 荒川区東日暮里3-8-8 江戸時代「第六天社」と称した当地を「カンカン森」と呼んだ。社前の「カンカン森通り」という通称はこれに由来する。以前はこの通りを「第六天通り」とも呼んでいた。明治中期。カンカン森は音無川沿いに開けた田圃の中にあり、竹薮が茂る淋しい所であったという。 なお、第六天社は胡録神社に改称、後に猿田彦神社と改めた。土地の作神、守護神として旧金杉神社の人々に崇拝されている。 境内に、胎蔵界大日如来の種子(梵字)を刻む享保13年(1728)銘の庚申塔、根岸氏子中が文化7年(1810)に寄進した手水鉢、本殿内に「猿田彦太神」の銘を刻む自然石型の庚申塔などがある。 この庚申塔台石正面には「峡田領金杉村大塚講中」の文字が、その左側面には14名の名が刻まれている。 なお、毎年9月1日に4ヶ町の氏子によって当社の例大祭が行われ、1年に1度本殿が開扉される。 荒川区教育委員会 昭和30年(1955)頃のようす 所在地 荒川区西尾久5-3-24 「条里南道」と記されたこの碑は、明治20年(1887)ころ、人文地理学者の小田内通敏が東京府史跡調査を行った際に、このあたりに残っていた条里制の遺構の保存を進言して建てられた。 条里制とは、古代の耕地の区画制度であり、基盤の目のような整然とした地割りが行われた。このように区画された耕地は、7世紀末ごろ制定されたという班田収授の法に基づき、農民に口分田として分け与えられた。かつて荒川流域には多くの条里制の遺構があったが、現在では上・中流域にわずかにみられるのみである。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区西尾久3-7-3 八幡神社と上尾久村村絵図 所蔵の上尾久村村絵図(荒川区指定文化財)は神社を中心とする上尾久村の江戸時代の様子を物語る。図中には、農業用水の流路、7名の領主名と各領主付農民、村内の社寺などが記され、隣村の田端村や中里村との間で取り決められた用水に関する記述が三か所ある。制作年代は記されていないが、嘉永元年(1848)以後のものであると推定される。このほか同社には、享保14年(1729)銘の手水鉢や南北朝期の至徳2年(1385)銘をはじめとする棟礼等がある。同社の創建年代は不詳だが、棟礼の年号等から中世には当地の鎮守として勧請されていたと考えられている。 荒川区教育委員会 八幡神社と八幡堀 八幡神社の創建は不詳であるが、鎌倉時代末期の正和元年(1312)に、尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃に遡ると考えられる。また、神社に残る棟札から、至徳2年(1385)には社殿が再建されたことこが確認できる。江戸時代に幕府が編纂した地誌『新編武蔵風土記稿』(文政11年〔1828〕)には、上・下尾久、船方三村の鎮守と記されている。 八幡堀は、王子・上中里・田端・日暮里と流れる用水が八幡神社をとり囲んでいたもので、酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久3-4周辺)を経て、荒川(現在の墨田川)に注いでいた。川を往復する舟が八幡堀まで進み、交易で賑わい、神社の西側では下肥の積みおろしも行っていたという。 荒川区教育委員会 厳島神社 所在地 荒川区西尾久 江戸時代、この地域には、石神井川から引かれた「八幡堀」と呼ばれる農業用水路が流れていました。昭和60年(1985)に尾久宮前小学校の子どもたちが、今は見えない川となってしまったこの水路について学習をはじめ、それがやがて地域ぐるみの取り組みとなり手づくりの絵本「ぼくらの音無川」にまとめられました。こうした地域活動は高い評価を得て、第40回読売教育賞の中で最優秀賞を受賞しました。 荒川区は、こうした貴重な財産を永く将来に伝えたいと考え、この水路を「八幡堀プロムナード」と名付けて整備を行いました。 東京都も、この都道付近が水路跡の一部であったことから、道路の整備に合せて、水路をイメージした圃ふぉ卯の整備を行いました。 この地域の歴史に関する活動を記念し、ここに古地図のレリーフを設置します。 平成12年(2000)12月 荒川区 荒川区教育委員会 所在地 荒川区南千住1 大関横町は、下野黒羽藩主の大関信濃守下屋敷(南千住1丁目1~8番付近)の南と西を取囲んでいた道である。南側の道は現在の明治通り。西側の道をはさんで伊予新谷藩主加藤大蔵少輔下屋敷(荒川1丁目36~38番付近)があった。 明治通りに拡張される前の道幅は、約ニ間(約4メートル)で、大関横町から三河島道(区立第一中学校の南側の道)に入ると前方に地蔵堀の石地蔵などを望むことができたという。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区東日暮里1-17 旗本三千石池田播磨守屋敷は明治通りの南側で、北の宗対馬守下屋敷に対していた。池田家は寛文元年(1661)に幕府より屋敷を拝領、以後、幕末まであった。 池田屋敷は4千9百1坪(約1万6千2百平方メートル)で、隣接して抱屋敷2千百坪余(約7千平方メートル)を有していた。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区南千住1-13 大関屋敷跡 下野黒羽藩主大関氏は、寛文元年(1661)、幕府からこの地に下屋敷を拝領した。その範囲は南千住1丁目1~8番、10、11番の一部の辺りと推定される。面積は抱屋敷を含めて8100坪(約26700平方メートル)であった。 黒羽藩二十七代増業は膨大な図書の編纂と、藩政改革で知られる。文政7年(1824)の隠居後、この下屋敷に閑居した。 また、三十一代増裕は若年寄兼海軍奉行の要職にあり、軍艦奉行勝海舟とともに幕末に活躍している。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区南千住1-15 (ドミール三ノ輪付近) 宗屋敷跡 対馬藩主の宗対馬守下屋敷は、寛文元年(1661)、に幕府から拝領した。面積8100坪(約26700平方メートル)。都電荒川線を北限とし、南は明治通り、東は日光街道より1本西側の道、西は南千住1丁目9番あたりまでが屋敷の範囲と推定される。 この屋敷の東南の角に、辻番所があった。武家屋敷近辺の取締りのために設けられたものである。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区南千住1-26 石川屋敷跡 伊勢亀山藩主石川日向守屋敷は、新開地一帯(現在のジョイフル三の輪あたり)にあって、総坪数11040坪(約36400平方メートル)にも及ぶ広さであった。万治元年(1658)、主殿頭憲之の時に、三河島・三の輪・小塚原三か村のうち10530坪(約34700平方メートル)の地を拝領し下屋敷を造築。寛文5年(1665)三河島村重右衛門の所有地518坪(約1700平方メートル)を買上げ、屋敷・庭園を造築した。 この石川屋敷では、4月から7月までの間に限って鉄砲稽古をしたという。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区南千住1-32 浄土宗 満海山 公春院 千日寺 公春院の松 公春院の巨松は、明治の末ごろで周囲が約4メートル、高さ14メートル、樹齢は優に500年を越すものであったといわれる。 『遊歴雑記』(文政12年〔1829〕)にも、東武三十六名松の1つ「証拠の松」として記されている。江戸時代、新しく寺院を建てることは禁止されていた。幕府の役人が当寺の開創年代を調べにきた際に、松の雄大な様子が新しい寺院ではないことを証明した。以来「証拠の松」とよばれるようになったという。 寺内に、天明7年(1787)銘太鼓、紙本着色仏涅槃図、寛文10年(1670)銘手水鉢などがある。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区南千住1-56 寛文元年(1661)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられた。東西二十間三尺、南北二十四間二尺(面積約1600平方メートル)ほどの土地であるが、本区におけるただ1つの門前町である。 町奉行支配地で、寛延2年(1749)3月に類焼の後、家作と畑地に分けられた。明治2年(1869)地名を下谷真正寺町と改めたが、明治12年(1879)下谷通新町に合併された。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区南千住2-1 三ノ輪橋跡(三の輪橋跡)(音無川) 三ノ輪橋は、石神井川の支流として王子から分流した音無川が、現在の日光街道と交差するところに架けられた橋である。橋の長さは五間四尺(約10メートル)、幅三間(約6メートル)であったという。 音無川は、日暮里駅前を経て、台東区(根岸)との区境を通り、常磐線ガード手前を右折、その左角は私立池谷小学校(明治36年〔1903〕廃校)跡、そして現日光街道を横ぎり、日本堤の北側を流れて山谷堀にいたるものであった。 明治41年(1908)、三ノ輪が属する16番分水組合が廃止され、音無川は農業用水としての役目を終えた。現在は暗渠となり、橋の名前は、都電荒川線の停留所として残されている。 荒川区教育委員会 台東区教育委員会 所在地 荒川区南千住3-28・台東区 ~ 墨田区 白鬚橋 白鬚橋 白髭しらひげの名は、天暦5年(951)創建の縁起のある向島の白髭神社に由来している。 古来、梅若伝説で知られる渡船場もこの辺りにあり、のちには舟の浮橋などもかけられたという説もある。 ここを、「船場の渡し」といったのは、このゆかりの名であり、交通の要地であったことを示している。 大正3年(1914)には、地元の住民によって会社が設立され、有料の木橋がかけられた。 関東大震災(1923)を経て、復興事業の一環として、昭和6年(1931)に重量感溢れるアーチ橋として かけかえられた。その後、東京大空襲などにも他の橋とともに多くの人を救う役割を果たした。 現在も、荒川区・墨田区・台東区の3区を結ぶ重要な橋である。
昭和58年(1983)3月 東京都
所在地 荒川区南千住5-16 金福稲荷神社は、文化7年(1810)江戸時代の史家林大学頭編纂による「新編武蔵風土記稿」中に、この近一帯は往昔「武蔵国中村」と称せられ、今から凡そ600年前の貞和3年(1347)足利時代に現西光寺境内地に「金子福寿稲荷」として創建されたものと記録され、その後、天文年間に西光寺が建立され、この金福稲荷が由緒ある霊験あらたかな神として地元の崇敬の中心となっておりました。かゝる由緒深い稲荷神社が戦災後信仰深い有志の方々により昭和32年(1957)2月に西光寺境内に再建復元され、この度現在伊に遷座いたし、益々地元の福祉と発展の守護神としてお祀りした次第であります。 昭和53年(1978)4月記 所在地 荒川区南千住5-16 笹の団子の如来(西光寺) 西光寺は、真覚山菩提院といい、芝増上寺の末寺で、賢誉長公(天文8年〔1539〕没)が開いた寺である。 本尊の阿弥陀如来は、恵心僧都源信の作と伝える四尺ばかり(約1.2メートル)の坐像である。病のある者が、笹の枝にさした白団子を供えて祈願すれば霊願があるといわれ、「笹の団子の如来」とよばれている。 境内に、貞和5年(1349)に鎮座したという金子福寿稲荷(金福稲荷)があったが、昭和53年(1978)に西光寺の東方に移転した。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区南千住1-59 百観音 円通寺 延暦10年(791)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、この辺りを小塚原とよぶようになったという。 江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂は安政2年(1855)の大地震で倒壊した。 境内には、石造七重塔、彰義隊士の墓、永仁4年(1296)銘を始めとする板碑4基(区指定文化財)などがある。 荒川区教育委員会 円通寺境内には『彰義隊士の墓』、『旧上野の黒門』、『板碑』、『鷹見の松』、『四十八首塚』、『七重塔』があります。 所在地 荒川区南千住1-59 (円通寺) 荒川区指定有形文化財(歴史資料) 板碑四基(永仁四年十月日銘) 平成4年2月7日指定 円通寺の板碑4基の内、3基は鎌倉時代末期の紀年銘をもち、区内に現存する板碑の中でも古い時代に属する。とりわけ永仁4年(1296)10月日銘は、日慶寺の正応2年(1289)銘に次いで2番目に古い年号を有し、南千住における鎌倉時代の人びとの生活を知るうえで貴重である。また、嘉暦4年(1329)正月29日銘は、薬研彫りで精巧な彫刻が施され、造形的にも優れている板碑といえる。 |
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
|