東京都荒川区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 荒川区荒川1-39 加藤屋敷跡 この付近には、伊予国(愛媛県)新谷藩主であった加藤氏の下屋敷があった。元禄11年(1698)、2代泰觚のとき、三河島村に下屋敷2153坪(約7100平方メートル)を拝領したものである。大関氏抱屋敷の北西、現在の荒川1丁目36~38番あたりと推定される。 維新後、明治政府によって屋敷は上地となり加藤氏はこの地を去ったが、三河島町大字三ノ輪字加藤という地名が昭和7年(1932)の荒川区制施行まで残っていた。 荒川区教育委員会 PR 所在地 荒川区荒川2-8 仙光院と峡田小学校跡 仙光院は真言宗の寺院で、山号は阿照山阿弥陀密寺。慶長8年(1603)創建で、阿弥陀を本尊としたが、2度の火災の後、元禄2年(1689)、鶴ヶ岡八幡の荘厳院から不動明王を移し本尊としたという。 九世は耳無不動(現、三峰神社内)を建立した東叡山、の僧光慧。明治になり、廃寺となったが、明治2年(1869)本堂を修復し、尾口八郎が寺子屋とした。明治10年(1877)名川蠖屈がそれを継ぎ、明治16年(1883)峡田小学校がここに開校。明治34年(1901)、荒川3-77-1(旧第一峡田小学校)の地に移された。跡地は三河島村役場となり、昭和7年(1932)から荒川区庁舎として使用された。 荒川区教育委員会 所在地 荒川区荒川3-1 地蔵堀の石地蔵 この石地蔵は、地蔵堀と呼ばれた用水堀の傍ら(現、サンパール荒川)に南向きに立っていた。大正14年(1925)、現在位置へ移され北向きになった。地蔵堀は今は道路になっている。 石の台には元文5年(1740)に浄正寺十三世、寛世が願主となり、三河島村の村人の尽力で再建されたことが刻まれている。当時、ここは三河島村の集落のはずれで、付近のよい目じるしになっていたばかりでなく、村人が旅立つ際に道中の安全を祈願したといわれる。今も交通安全祈願の地蔵として祀られている。 荒川区教育委員会 |
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永山
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